SF寄りなブログ 推論の種

メンタルシンギュラリティ

 この投稿は,Society 5.0に向けて,おそらく人間が対面しうる技術の本質と課題について,問いかけることを目指しています.
 また,恐れながら拙著「科学的教育研究をデザインする」に,この語を登場させ,何とか人の目に触れ,問題提起をしたいとの思いから,世に出しました.おそらく,それを読んだ方の中には,「科学的研究の原則を扱う本の中で,科学的に証明されていないアイデアに触れてどうするの?」という疑問を持たれた方も居るのではないかと想像します.そうした方には,先に謝っておきます.できれば,一度本ページを最後までご覧いただいて,その後に何か考える切っ掛けにしていただければ,幸いです.

定義(原著上の表現)

AIの急成長に伴って,AIの知能が人間を超える技術的特異点(シンギュラリティ)の存在が指摘されている。AIに限らず,技術の目的が,人間の思考と目的を置き換えることは既に起き始めており,ここではメンタルシンギュラリティと呼んでいる。

齊藤(2019, p.218)

Google(日本語)での検索

メンタルシンギュラリティについて,現時点では日本語で触れている論文やWebサイトはありません(2019/11/20時点でも確認済).

Google Scholarにおいても,それは確認済みです(2019/11/20時点でも確認済).

英語では出てくる

 しかしながら,英語での検索をしますと,少しだけ出てきました.以下,それを引用しつつ,もう少し深くこのメンタルシンギュラリティについて論じてみます.その前に,現代(2019年現在)一般的に言われているシンギュラリティの意味について確認しておきましょう.

シンギュラリティの二重の意味

 シンギュラリティという言葉は,AIの発達とともに語られることが多くなりました.しかしながら,少し調べてみると多様な使われ方をしているように見受けられます.大きく分けてみて,少なくとも2つの見え方があるので,ここではそれをまずは書いてみましょう.

一般的なシンギュラリティ(技術的特異点)

人工知能(AI)が人類の知能を超える転換点(技術的特異点)。または、それがもたらす世界の変化のことをいう。

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

 この記述からすると,シンギュラリティは,システムがある状態から,別のまったく違う状態へと転換するある時間軸上の点を指しているものと見ています.

言葉通りの意味

 逆に言葉通り,文字通りシンギュラリティを受け止めるとどうなるか.それは,”Singularity”→Singular:単一の状態を指している(以下,引用の2.)ものと考えられる.対応する語はMultiplicity.

1.exceptionally good or great; remarkable.

2.(of a word or form) denoting or referring to just one person or thing.

Google翻訳

 メンタルシンギュラリティは,このシンギュラリティの二重の意味を背景に,技術による人間の思考や行動への影響を説明しようとしています.

心のシンギュラリティ

ノイマンの言及

 英語での記述として確認できたのは,物理学者でもあるフォン・ノイマンの研究について触れている,Joseph(2011)があります.

 Rhawn Josephが言及しているのは,Von Neumann(1932, 1937)においてノイマンが触れている「心の単一性」としての「メンタル・シンギュラリティ」についてであり,Joseph自身が指摘しているように,それは Multiplicityであるということを,脳科学・脳心理学・量子力学をからめて説明しています.

 Jpsephの指摘が正しければ,

ノイマンは,脳と心とが『単一の事象』に対応する『単一の経験』を持っていると仮定しており,この脳と心の性質に関する重大な誤解は,残念ながら多くの宇宙学者や物理学者によって事実として広く受け入れられた.更に,彼が論じるところによれば,知ることの過程において,この単一の脳/心の量子状態は,崩壊する.むしろ,量子宇宙が,知られているものによって崩壊され,換算されるように,数学的に定量化可能なかたちで換算される(Von Neumann, 1932, 1937).

しかしながら,脳や心は単一なものではなく,多重性を持っている (Joseph, 1982, 1988a,b, 1999a).それでも,ノイマンの概念は,それぞれの心の領域が相互作用する多重性のサブセットとして個々に捉えられた場合,脳/心の多重性にも適用することができる.

Quantum Physics and the Multiplicity of Mind:
Split-Brains, Fragmented Minds, Dissociation,
Quantum Consciousness

 Josephは,自分の指摘する脳や心の多重性を説明するために,これらを単一なものと観るノイマンの説明と対比させています.ところが,最後の一行では,それぞれの考え方を整合させることもできるようなことを書いています.多重性の意味が,以下のような入れ子構造の意識の話と変わらないとすれば,入れ子構造の内部で,それぞれの意識が単一性を示しているとしても,それはうなずけるように思います.もう少し,読み進めてみましょう.

意識の多重性

 シンギュラリティ自体は,余り言及されていないことは上に示したとおりですが,意識の多重性についてはしばしば言及されています.例えば澤口(2001)は,意識の多重性について,以下のようにまとめています.

意識は単一なものではなく,少なくとも3つのレベルがある.
1.覚醒: Awareness
2.警戒:Vigilance
3.注意:Attention
多くの心理学者,哲学者のいう意識は3.注意に対応する.
「注意」には,受動的意識と能動的意識があり,受動的意識は外界からの刺激によってボトムアップ的に引き起こされるが,能動的意識は自分の意思によって能動的に(トップダウン式に)対象に意識を向ける働きのことで,選択的注意とも呼ばれる.

澤口(2001)

また,同澤口(2001)では,意識の対象と特徴から,少なくとも次のようなカテゴリーに区別することができるだろうとしている(p.12)

  • 言語的意識
  • 空間的意識
  • 論理数学的意識
  • 音楽的意識
  • 身体運動的意識
  • 自己意識

というように,これだけ見ても意識は多重であることがわかります.澤口の言を借りればこれらは,「モジュール性を持ち,入れ子構造の下位意識モジュールに区別でき」,それは「脳が多重構造をしているが故」のことであると考えられます.

この区別って,創造性に関してハワード・ガードナーが紹介した,Multiple Intelligence(MI)にも通じる部分がありますね.博士課程でご一緒したインドネシアからの留学生が,MIの研究はされてました.

上位と下位の整合性とその証拠

 このように,外から見えるもの(意識や知能の観察・測定)と,その内面での脳の働きとの整合性というのは,徐々に解明されていくことになるのでしょうね.

 その意味で,私がエビデンスがまだないと言っている意味の根源はここにあって,「外から見るとそのように見える(観察できる)けれども,物理的な測定値(これも観察)との整合性が十分に確認できていないもの」は,まだまだあるので,そこをつないでくる作業が,教育関係の研究では十分に行うことができていないということでもあります.

 とはいえ,このリンクは短時間で張れるものではなく,それぞれの分野が枝葉を伸ばして,知見を積み重ねることで成されるものでしょう.

 さて,話がそれてきました.メンタルシンギュラリティの話に戻しましょう.

技術と心,心と行動

人間が技術と関わるとき,技術は(意識しなければ)それを扱う人間の思考や行動までをも変えていく.

Clough(2011)

 話の根本は,技術の本質に根ざしています.「人間の要望や欲求に応じて,自然を改変していく」(NGSS, 2013)技術ですが,その改変は人間自身にも及ぶということですね.

 卑近な例で恐縮ですが,インスタグラムという技術は,私達の日常を共有し,お互いの生活に彩りを添えてくれる.一方で,私達は「映える」ものをもとめて,思考や行動までをも変えていく.

 これはインスタに限らず,Facebookでも,ポケモンでもなんでも良いのですが,大規模に市場に投入され,消費されるが故に,その影響範囲も大きい.

 他人に認められたい(承認欲求)とか,帰属意識とか,同調圧力とか,その起源は現代において幅広く,これだけ流行るからにはそれこそ「単一」ではないように思います.
 技術は,その使用者の心にまず働きかける.これは,上記にあるような意識のモジュールの複数部分を刺激するという意味で,知能増幅(IA:Intelligent Amplifier)としてのコンピューター・スマートフォンの特徴でもあると予想しています.

 訳語の問題に触れておくと,上記で心Mind/意識Consciousnessと訳していますが,例えば「心」の理論(Theory of mind)と言った場合,上記で言う意識のうちの3.注意を他者の心に向けている状態を指しており,「意識」と重複しているのでは?と感じる方もいるでしょう.

 おそらく心は意識よりも上位にあり,行動と同じく,複数の意識モジュールをまたいだ創発を通じて,技術と関わっている.意識は心と同じものではなく,心は行動と同様に意識との関係性を持つのではないか(この点は後ほど触れます).

Society 5.0におけるメンタルシンギュラリティ

 さて,拙著本文中ではSociety 5.0におけるEdTechの活用と関係づけて,多くの学習者がデジタル技術を通じて個別・最適化された学習を目指していくことと,STEAMを通じた探究を進めていくこととの適切な関係性を構築していくべきであることに言及しています.

 要は,EdTechというものが,到達度ベースで作られるなら,それは到達度というものを目指す学習者を量産することになり,決して探究のきっかけにはなりませんよという,危惧でもあります.

 「Need to Do」は,知識の獲得においてコンフリクトが起こるから発生するのであって,整合性のとれたシステム内部において,その必要性はあまりないんですね.これは例えば,進学校において実験が必要とされないこととほとんど変わりない.
 つまり,知識を得るその段階において,現実感がなくなっていくことと同義でもある.それではやはり新しい時代の学びとして不足なんだろうと思います.

 なぜ,STEAMの側が必要なのかは,もう別のポストで散々書いているので,そこは譲るとして,ここではメンタルシンギュラリティの機序についてもう少し書いてまとめとしたいと思います.

メンタルシンギュラリティの機序

 人間の思考や行動が技術によって置き換えられるのは,それにどっぷり浸かるときで,特に作る側にいる場合には,既にその技術をデザインすることに精一杯になっているのではないか. 

 科学が一つの実験,一つのデザインにおいて観るのは,単一の目的であり,単一の変数の変化であったりする.一方で,それが多様なシステムの内部においてどのような変化をもたらすのか,どうしたらそのシステムの中で効果を発揮できるのかといったところを精査していくのは,エンジニアリングの役割だったりする.

 ここで,きちんとまとめておきたいのは,心や行動というものは,前述の意識や,該当する脳領域の単一のはたらきによるものではなく,レイヤーが一枚(または複数枚)上の段階にあるものであると考えられ,ある種,創発に似た現象がそこにはあるのではないでしょうか.

 そうすると,ここに一つの仮説が生まれます.「意識の複数部分に働きかけ得るデバイス(技術・テクノロジー)は,人の心や行動を左右し得る」のではないか.

 その意味で,メンタルシンギュラリティは,「(心や行動を司る)システムがある状態から,別のまったく違う状態へと転換するある時間軸上の点を指している 」ものと考えられる.

 こうした仮説を前提とすると,もっと手前のシステムの設計の段階で,技術の本質・科学の本質については議論に含めていって,常に共同していかないといけないような種類のものなんだろうと思います.

 まして,こういう性質があるとすれば,人の心や行動をデバイスを通じて変えうる危険性をもはらんでおり,規制の対象と観るべきものなのかもしれません.

 ここに書いたことは,私個人の思考に基づいた仮説とも言えないようなアイデアの種でしかないかもしれません.もし,科学的なデータや理論と異なる部分があれば,どうぞご指摘ください.
 逆に,科学的なデータや証拠がない推論があるとすれば,それは検証されるべきものだと考えておりますし,EdTechやSociety 5.0を支えるエビデンスは,こういうところから示されて然るべきと,考えております.

References

澤口俊之(2001),意識 Consiousness,in「複雑系の事典」編集委員会(編),『複雑系の事典-適応複雑系のキーワード150』,pp.11-13. 東京: 朝倉書店.

R.J.シャベルソン,L.タウン.科学的な教育研究をデザインする 証拠に基づく政策立案(EBPM)に向けて,米国学術研究会議,2019年(令和元年)12月10日,248頁,齊藤 智樹(編訳),北大路書房,版元ドットコム,又はAmazonからお求めください

その他,リンクの貼ってあるものは,本文中のリンクをご参照ください.

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