久しぶりに国立大学法人の附属学校の授業公開にお邪魔してきました.今回は,そこで考えてみたことを書いてみます.※当該校の具体的な事例について書いているわけではありません.
教育研究とは何なのか?
自分もそこで教える立場にいたこともありますので,実感を伴っての作文なのですが,教育研究(アカデミア)≠教育研究(@附属学校)≠一般の学校での実践なんですよね.例えば,ちょっと検索しても以下のような記述が出てきます.
学習指導要綱と教育現場の乖離について(英語の場合)
英語教育の現場と言語学界の事離
教育社会学は教育実践にいかに貢献しうるか
研究と現場のコーチングとの乖離
(要綱は原文ママ)
理論と実践の共約不可能性
人に言わせると,この理論と実践は言ってみればパラダイムが違うので,共約不可能であると.考えている方もいらっしゃいます.これは,「そんなんでいいのか?」という話もあるかと思いますが,基本的に当事者の意志とかではなく,そういう仕組みになっていると考えた方が良いという意味だという主張です.
証拠に基づいた教育の必要性
一方で,証拠に基づいた教育も結構大事になってきて,「それって本当に効果があるのか?」という事を確かめないままに,政策になったり,現場に降りてきてしまったりという感じになっていいの?という御意見もあるわけです.
教育にとってエビデンスとは何か ―エビデンス批判をこえて ―
エビデンスに基づく教育- 研究の政策活用を考える
私も基本的に,エビデンスに基づいて教育を進めるというのは,大事なことだと思っております.現場感覚では,「匠の技」じゃないけど,教育というのは技術であって,ベテランだからこそ得られる勘みたいなものが重要であると考えられている面もありますが,それをどうにか経験年数の浅い人にも分かるようにしていかないと,現代的な課題は乗り切れないんじゃないか?という気持ちもあります.
理論と実践をつなぐエビデンス
理論と実践の間を埋めるには,研究者は現場感覚を持ち,実践者は理論の感覚を持ち合わせることが大事で,それに向けて自分にできることってなんだろう?と考えています.例えば「エビデンス」について伝えていくことは,その一助になるでしょうか?
エビデンスを作っていく上で,(これは医療分野の表現だけれど)どういう研究を進めていくのかというのは,一つ方略として大事です.できれば,ランダム化比較試験(RCT)を行って,それをメタアナリシスしたものをエビデンスとするのが,最良(上記リンク先参照)ではあるわけですが,流石に全ての教育事例において,それを行うのは不可能でしょう(EdTechとかが関わっている分野では,割と早く出来ていくと思われますが,利用者に無断でデータを取るのは倫理に反するので,そこだけ注意).
実践者の大事な役割と研究者としての実践者
それに,こういう話を聞けば聞くほど,「自分とは関係ない」と思われる実践者の方も多いと思います.でもね,実践は全体の中の大事な部分なのです.例えば,上の図で言うと,一次研究となっている部分で,ランダム化比較試験は流石に,一人では難しいと思いますが,コホート研究や症例対照研究に属しているようなものは,実践と一緒でなければ成立しません.
また,RCTが難しい場合,準実験的(Quasi-experimental)な手法の質を高めることで,代えていくという方法もあります.また,「単一の研究が堅牢な結果をもたらすとは考えにくい」わけで,多くの先生が別の文脈で,同じとはいかないまでも,かなり近いことをやってみるといったことが必要になってきます.
更に政策的なことで言えば
研究指定→ナラティブレビュー→ 学習指導要領→実践→データ?
実践→データ→RCT→メタアナリシス→学習指導要領
というように,向きがありえると思うんですね.途中ちょっと端折ってますが.
それに,一度にかなりの事を変えていく場合が多いので,エビデンスを作るのが難しくなっているというのもあります.
エビデンスづくりを地で行くのだとすれば,相当こういうシステムづくりに根を詰めないといけなくて,そこがある意味でやらないといけないことかなって思います.
まとめ
翻って,附属中学校の話に戻るのですが,先生方が個人でも色々と研究されて,良い実践づくりに邁進されています.それは,それで素晴らしかった.それぞれの先生が教育学していたと思います.
一方で,ここに書いたような教育研究,言ってみれば教育科学(Educational Sciences)をしっかりやっていく,広めていくのも附属学校の仕事なのかもしれないなと,考えた次第です.これは,個の事例への批判ではないことを申し添えます.