#3-001 科学の本質

このページはカリキュラムマテリアルの一部です 

「科学の本質」Nature of Scienceは,一種の哲学的研究のジャンルとして存在します.日本においては,2022年である現在のところ,科学哲学を扱う哲学界隈の人々と,科学の本質について理科の中で教えることを目論む(?)理科教育界隈の人々の2つのグループがあるように見えます.このページでは,将来理科の先生になる学部生を第一の読者として設定して,科学の本質について論じています.結果的に,どの人や文献を参照したらよいかというのは,色々あると思いますが,私的にはこういうのを読んだリストになると思われます.

アメリカの2人

 まず最初に紹介するのは,個人的には科学の本質の2大巨頭と勝手に呼んでいるNorman G. Lederman氏とWillam F. McComas氏のお二方です. Ledermanの方は,残念ながら先日お亡くなりになったばかりです.学会等で目にすることはあっても,結果的にきちんと話をすることができなかったのが,悔やまれるところです.

ではまず,Ledermanさんの方から見ていきましょう.

 レダーマン(2006)は,いろいろな文献で科学と呼ばれているものは,①知る方法,②方法,③知識の総体の3つであるとしています.これらのうち,右の2つについては,大体皆さん学校の理科で習ってきたものとそう変わりないと思います.知識の総体とはいかないまでも,ある程度の基礎的な部分は高校までの学習で習いますし,それぞれの知識が生み出されてきた方法についても,学校の理科室でできる範囲には限られますが,結構やってきた記憶があると思います.

 一方で,一番左の知る方法Way of Knowingについてはどうでしょうか?これはつまり,科学者が自身がどのように世界を見ているかに関わっています.知識の総体は,科学者が,方法を通じて見出してきた知見のことを指していますが,その科学者自身が何をどう考えて科学をしているのかについては,あまりよく知られていません.

 ここで大事なのは,科学は「する」ものなんですね.科学をするという行為をしている人は,いったい何をしているのかについて考えることは,科学の本質に迫る一つの方法です.

科学の方法

方法としてよく言及されるのは例えばプロセススキルズというやつです

観察する,空間/時間の関係を利用する,分類する,数を使用する,測定する,伝達する,予想する,推論する

変数を制御する,データを解釈する,仮説を設定する,操作的に定義する,実験する

AAAS

 一つの考え方は,科学者は科学の方法を通じて,知識を生み出しているというもので,これについては多くの方が納得できるものではないでしょうか.

一応,一つひとつ確認してみましょう.
 まずは,観察,これは生物の観察とかよく聞くと思いますが,物理でも,化学でも,地学でも変わらず自然現象を観ることを観察と呼んでいます.

その時に,どういう見方・考え方をするのかというのが,このリストで,
 時間空間を利用するから,推論するまでが割と分かりやすくて,実験・観察に関わって理科の時間でもよく扱われます.

 一方で,2行目のリストは割と複雑な行為であるので,子どもたちが自ら行えるようになるには,かなりの練習が必要です.先生の手を借りたりして,その機会が得られれて初めて,できるようになっていくものですね.

 変数を制御したり,データを解釈する場を設定するのは,かなり理科の時間でもやってきていると思います.

 仮説はさすがに子どもたちが関わることができる状態までなかなかいきません.

 操作的に定義するということは,通常理科の時間で余りありませんが,測るという行為をするうえで,どんな単位で行うのかが分かれば,自然と決められます.例えば,長さを測るとわかれば定規を使う,水の量を測るとわかればメスシリンダーを使うといった感じで,どんな予想を立てているかというところから,使う方法を選ぶ部分に関わってきます.

 さて,日本の理科の時間だと科学の方法という部分でいうと,対照実験というのを中学校1年生で習いますね.

 その他,操作,比較,関係づけ,条件制御なども考え方として,小学校の理科の時間で扱われています.これらは,実は科学だけに特有の方法というわけではないですが,歴史の中で科学者が積み重ねてきたものなので,科学とは何かを表してくれるもののうちのいくつかです.

 これらの方法は,確かに科学とはどういうものかをおおよそ説明してくれていますが,科学の方法は日々新しく開発されていますから,これだけが科学というわけではないというのは,覚えておいてください.

知る方法

さて,そしたらいよいよ本丸の知る方法について書いていきたいと思います.

 これは,科学者が何をやっているのかを,外から記述している人々の意見にもとづいているので,もしかしたら科学者ご本人が聴くと「そんなことない」と気分を害される方もいるかもしれません.また,私たち,特に日本人が考えている科学の姿とはまた違うのかなと思う部分もあります.あくまでも,もとにしている論文著者のレダーマンさんが書いていることなので,いじめないでくださいね(笑)

 では,以下知る方法についてですが,

  • 一つ,観察と推論の区別,
  • 二つ目,法則と理論の区別,この2つはつながっています
  • 三つ,創造と想像,説明の発明
  • 四つ目,科学的知識の主観性,理論について
  • 五つ,科学の営みと文化について
  • 六つ,科学的知識の暫定性について
  • 七つ,先に挙げた科学の方法との区別

以上の七つになります.一つひとつ見ていきましょう.

観察と推論の区別

 観察というのは、自然現象についての記述であり、五感で(または感覚の拡張)「直接」アクセスできるようなもので,複数の観察者,つまり他人が見ても,比較的容易にコンセンサスを得ることができるものである(例えば、バッタの足は6本あるとか,塩酸に金属を入れたら泡が出たとか,細胞には葉緑体があるとか)。一方で、推論は感覚を超えたものです。例えば、観察されたバッタの足は6本あるという形態が機能にどのように寄与しているかという観点から、観察された形態に関する説明を展開することがあります。より高いレベルになると、科学者は複雑な現象の観察を説明するモデルやメカニズムを推論することができます(例えば気象のモデルとか,進化のモデル,原子や分子のモデル)といったように,もはや人間の五感で直接観察できないものになっています.

 これと同じように,観察と推論の区別に密接に関連しているものとして,科学的な法則と理論の区別があります。私たちはしばしば、理論と法則の関係について単純で階層的な見方をしてしまっていますが,そのような見方からは、理論は裏付けとなる証拠の入手可能性に応じて法則になることになります.このような考え方から、科学的な法則は科学的な理論よりも高い地位にあると考えられているとレダーマンは指摘しています.

しかし、しかしですね.ここからがレダーマンの言いたいところなんですが,理論と法則というのはそもそも,異なる種類の知識のことを言っていて,一方が他方に発展したり、他方に変容したりするものではない.とこう言っています.

法則というのは、観察可能な現象間の関係を記述したもので,例えば,一定の温度での気体の圧力と体積の関係を表すボイルの法則などがその一例なんですが,,,対照的に、理論というのは,観察可能な現象を推測して説明するものになっています(例えば、分子運動の理論は、ボイルの法則で観察され、説明されていることを,これまた説明している).科学的なモデルと一般的に言われているものは、科学における理論と推論を説明する例ということになります.さらに、理論は法則と同様に科学の正当な産物として扱われていますので,科学者は通常、いつの日か「法則」の地位を獲得するということを期待して理論を策定することはなくて,理論は理論ですね.

創造と想像,説明の発明

以上を踏まえると,科学的な知識というものは,少なくとも部分的には,自然界の観察(つまり経験的)に基づいているということもできるし,その一方で,人間の想像力と創造性が関与しているということも分かりますね.このため,科学というものは、一般的に信じられていることに反して,全く人間味のない,合理的で整然とした活動なのではないと,レダーマンは結構大胆なことを言っています.科学というのは,説明の発明を伴うものであって,これには科学者の創造性が大いに必要とされるんですね.なので,このような科学の側面は,推論としての性質と相まって,原子,ブラックホール,種などの科学的概念は,現実の忠実なコピーというよりも,言ってみれば機能的な理論モデルであることを意味していると言えます.

科学的知識は主観的で理論的

 更に,レダーマンは科学的知識は主観的であり、理論的なものであるとまで言ってしまいます.

 科学者の理論的なコミットメント,信念,既有の知識,学習,経験,期待などが、実際に彼らの研究に影響を与えるためということなんですね.

 こうした背景要因とも呼べるものはすべて,科学者が調査する研究課題や調査の実施方法,あるいは何を観察すして,何を観察しないか,観察したものをどのように理解したり解釈したりするかに影響を与える前提となっていると考えられます.

 そのため,科学的知識の生産における主観性という言葉をレダーマンは使っていますが,その主観性を説明するのは、今説明したような個性とかマインドセットというものであるということなんですね.この個性とかマインドセットというのは,そのまま集団にも当てはめられて,ある研究グループがどんな研究をするのかというのは,同じくその集団の背景要因に影響を受けているということになります.

 科学は,一般的に信じられていることとは裏腹に,中立的な観察から始まることはほとんどない(Chalmers, 1982)と言い切るチャルマーズを引用して,レダーマンは観察や調査は、問いや課題を参照しながら,動機づけられ,導かれ,意味を獲得していくと説明しています。これらの問いや課題は、ある種の理論的な視点から導き出されます。多くの場合、仮説検証やモデル検証は、科学的調査のガイドとして機能します。

文化の中の科学

 ここまでくると人間の事業としての科学は、より大きな文化の中で実践されていて,その実践者(科学者)自身,その文化の産物であるという事実にも思い至ります.

 科学は、それが埋め込まれた文化の様々な要素や知的環境に影響を与え、その影響を受けます。

 これらの要素には,社会構造,権力構造,政治,社会経済的要因,哲学,宗教などが含まれますが、これらに限らず,いろいろな影響が考えられますね.

 例えば,その例としてレダーマンが挙げているなかには,鍼治療の実践があります.
 日本でもありますよね.針の治療.
 あれは,東洋発祥のものですから,西洋では,結局それがどうして効果があるのかについて,西洋科学的な説明が提供されるまでは、西洋科学によって受け入れられなかったということですね.言い方を変えれば,その文化に理解できる論法で語ってあげれば,理解できるとそういうことになります.

科学的知識の暫定性

それから,もう一つ大事な点があります.
 それは,これまでの議論からもわかるように、科学的知識は決して絶対的なものではなく、確実なものでもない。ということです.「事実」、「理論」、「法則」を含むその知識は、暫定的なものであって、変更される可能性がある。とレダーマンは言います.

 科学的な主張は、理論や技術の進歩によって可能になった新しい証拠が既存の理論や法則に反映されたりとか,あるいは古い証拠が新しい理論の進歩や確立された研究プログラムの方向性の変化に照らして再解釈されたりすることで変化していくということが,日々起こっています.これは,多分いわゆる理科の教科書に載っていることを参照しているだけでは感じ得ないことかもしれません.

 例えば,断続平衡という概念は、化石の記録を別の視点から解釈することで生まれました。その観察によると,過渡的な種が欠けていることが見出されたため,種は徐々に変化していくという古典的な進化論の再解釈がなされるということが起こっています.

 でもね,レダーマンは,科学における暫定性は、科学的知識が推論的で創造的であり、社会的・文化的に埋め込まれたものであるという事実からのみ生じるわけではないことを強調しなければならない。とも言っています.これは,科学者の論理にしばられていないから暫定的という意味じゃないよというわけではなく,現時点でどんなに厳密にやっていても,遠い将来には塗り替えられているかもしれない.とそういうことでしょう(多分,この辺りの解釈に怒られる理由はあると思う).

 一方で、一部の人は、科学的知識を説明するために「暫定的」という言葉を使うことに異議を唱えています。あなたもその一人かもしれません.気を悪くされたようでしたら,お許しください.「暫定的」という言葉が、その知識が薄っぺらで根拠のないものであることを暗示していると感じている方がもしいらっしゃったら,例えば「改訂的」や「変更の対象」といった記述がいいんじゃないかというのがレダーマンの意見です.
 どのような言葉が使われたとしても、意図された意味は,同じところにあって,どれだけ裏付けのある証拠が存在していたとしても、科学の知識は、先に述べたような理由で将来的に変化する可能性があるということです。

方法と知る方法の区別

 最後に、人によっては科学の本質を科学的プロセスや科学的探究と混同していることに注意することが重要です。科学のこれらの側面はそれぞれ重要だし,また重要な点で重なり合っていて、相互に影響し合っていますが、それでも、両者を区別することが重要だとレダーマンは言っています.

 科学的プロセスというのは、データを収集し、分析し、結論を導き出すことに関連した活動です(AAAS, 1990, 1993; NRC, 1996)。

 例えば、一番最初に触れた「観察と推論」の話は科学的プロセスに関わっています。個々のプロセスよりも複雑な科学的探究には、周期性を持つように見える様々な科学的プロセスが含まれています。

 一方、科学の本質とは、科学の活動の認識論的裏付けと、その結果として得られる知識の特徴を指します。

 このように、観察は必然的に理論的なものであり、人間の知覚装置によって制約されていることを認識することは、科学の本質の領域に属します。

 ただしですね,このように科学の本質を科学的探究と区別することは、科学の本質の方が児童生徒が学ぶ上でより重要であると考えられていることを意味するものではないと,レダーマンは断りを入れているので,どっちが上かとか,どっちをやるべきかという話ではないと思います.

 それでも,多くの方がお気づきになったと思いますが,科学の本質について私たちは学校で教わってきていませんよね.ある段階で,気づいて,学んだ人が知っているというのが現状だと思います.また,科学の本質について科学的な探究抜きにして教えるというのも,かなり難しい部分があると思います.本人が取り組んでいて初めて見えることもあるからです.もし,理科の時間を探究的にやっている方がいれば,ちょっと授業のはしばしで触れてみるというのもよいかもしれません.もちろん,探究の時間で触れていくのもよい機会だとは思います.高校かな?

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